2025年1月10日金曜日

花だより 「活動あって学びなし」(生活科の課題) オトメコザクラ

 

 「活動あって学びなし」
  元札幌市生活科・総合的な学習教育連盟委員長 森田 智也
 教育情報誌に懐かしい名前がありました。生活科研の若手の有望株と思っていた先生が、もう退職していました。改めて自分の年齢を悟りました。
~生活科聡明期の担い手から  
 「活動あって学びなし」 生活科でずっと課題となっているワードです。なぜそうなるのか2つの面が考えられます。
一つ目は「こんな力をつけることを目標に、この活動をするのだ。」という想定が甘かったり、さらには想定していなかったりすることが起きるためです。つまり、目標設定が不十分だったということです。
 二つ目は、受け継がれてきた「形」をそのまま続けているためです。受け継がれてきた活動例がありますが、その活動の形だけを追い求めてしまい、何のために活動しているのか、分からなくなるような、魂(本来の生活のねらい)が抜けた授業になっていることが考えられます。
 そして、「活動あって学びなし」に陥っていると感じるのは「表現」です。限られた時間の中で、活動を振り返り、全ての子どもたちと対話して確認することはできません。そのために活動の後に「書かせる」ことです。しかし、書けない子には難しいものです。そこで先生は、「たのしかったことは?」「どこが?」「なぜ?」「どんなふうに?」と深堀するような各材料・起点が見つかるような支援をすることです。そして、それを紹介することです。交流の場を持てば、「こんなことを書けばいいんだ。」と書き方を知る場となります。

 幼児教育では「遊びは学びである」といいます。生活科との違いは「10の姿」という目指す姿はあっても、到達目標ではなく、故に評価がないことです。生活科の課題のような「遊びあって学びなし」という発想は無いようです。それが小学校に結び付いていない原因ではないかと思います。

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