生徒指導は「あれも、これも」の指導がいい
生徒指導ではよく議論になる相反する指導があります。例えば「“ダメなことはダメ”という指導」とか「毅然とした指導」が不可欠であると考えるのに対して、その指導では息苦しく否定的な対応になるという考えがあります。「厳しい対応がいいのか、優しい対応がいいのか」「叱る指導か、ほめる指導か」さらに「生徒指導的対応か、カウンセリング的対応か」などというものもあります。これらの議論に迷ったりしていると、現場では、指導が場当たり的になり一貫性を失い、やがて学校や学級は崩れていくことになります。
教育の世界には、「あれか、これか」という迷いはよくあることですが、「あれも、これも」も必要だと現場は思っています。ところが専門家(教育評論家)の議論になると大方「ほめる」「カウンセリング的対応」に軍配が上がります。耳に心地よい言葉が並び、理想的な教育に思えて納得してしまうからです。そのために迷ってしまうのです。
どのような“場面”でどう指導したのかが問題なのに、ある場面でうまくいったことが、他の場面にも通じるかのように単純に広げてしまうために迷うのです。
例えば、問題行動が頻発する学校で、ただ褒めたり、カウンセリング的対応ばかりしていたりしても、事態は好転しません。逆に、厳しいだけでも生徒は心を開きませんから、原因への対策も方針も適切には立てられません。このような偏った指導を放置しておいてはいけないと思います。
逆の場合もあります。厳しい指導(実際は「校則指導」や「規律指導」に過ぎないのがほとんどですが)をして、いまは落ち着いている学校だとします。すると多くの人が「この状態になったのもこれからのこの状態を維持できるのも、厳しい指導をしてきたからだ」と考えがちです。本当は別の理由で落ち着いてきたのかもしれないのに、人は目に見えるものにとらわれますから、厳しい指導の成果だと思ってしまいます。
こうなると、ますます厳しさに拍車がかかり、校則や規律を守らせることが優先され、厳しい指導をしない教師にはダメな教師のレッテルが貼られます。落ち着いた学校になったのは悪いことではありませんが、問題はここからです。
落ち着いた学校とは、些細な問題なら子どもたち自身で解決できる、大きな問題(例えば「暴力」「授業妨害」「いじめ」など)であれば、教師の指導が通って解決できる学校のことです。問題が一切起こらずに今後も落ち着いた学校現場を維持するなどということは、到底ありえません。
ところが、この厳しい指導だけで落ち着かせていた学校は、既に生徒の心が先生たちから離れていていることが多く、大きな問題が起こったときには指導が通らなくなっています。生徒指導は、その根本に教師と生徒の信頼関係がないとうまくいかないからです。
信頼関係の底流には、例えば「この先生の言うことなら従おう」「この先生には嫌われたくない」などという単純で素朴な感情があります。その感情が教師を尊敬していくことにつながるのですが、それがなくて指導は絶対に通りません。
「校則」や「規律」を優先する指導では、やがてその指導が目的化しますから、生徒の心を掴むことはできず、「暴力」や「授業妨害」などの大きな問題に対応できなくなり、学校は荒れていきます。ですから、「厳しい指導」だけではダメで、生徒から尊敬されるような人間関係をつくるには「あれも、これも」なのです。
厳しい対応も優しい対応も、叱る指導もほめる指導も、生徒指導的対応もカウンセリング的対応も、みな必要なのです。生徒指導方針は、根底にあるべき教師と生徒の信頼関係を壊したりするようなものではあってはいけない、ということを肝に銘じておくべきです。










