2026年6月14日日曜日

花だより 通知票に通信欄がない? イワカガミ アケボノフウロ

 



 通知票には担任が書き込む通信欄(所見)があります。
“給食の片づけが上手です”、“掃除当番も熱心です” 親の目には、家庭ではさっぱり手伝いをしないと映っていたのに、学校ではきちんとやっていることが分かり思わず微笑んだ。そんな保護者も多いのではないでしょうか。教師の目線で親の知らない子どもの姿をとらえ、家庭と学校の「橋渡し」をする通信欄の大切な役割です。
 それなのに一部の学校では通信欄をなくしたという。“保護者とのコミュニケーションは取れているので、書く必要はない”というのが教員側の言い分のようです。しかし、学校の様子を一人一人について文章に書くことで、子どもの生活がもっとはっきり見えてくることもあります。また、「記録に残るので、うかつなことは書けない」という教員もいます。通信欄の空白の向こうには、保護者と正面から向き合うことにしり込みする教員の姿が浮かびます。
 通知票は、出さなければならないというものではなく、通信欄(所見)の記入は教員の義務的な仕事ではありません。通知表そのものをなくした学校もあります。
 所見は、手書きからワープロ、そしてAIがアシストしてくれる時代になりました。
 新卒の頃、“通知票(評価)さえなければ、教員ほど楽しいものはない”と思っていました。先輩から、「所見が書けるようになったら、一人前の教師だ。」と言われ、学年主任、教務、教頭、校長先生を回って戻ってきた所見の下書きは真っ赤になっていたのを思い出します。子どもの成長を思い浮かべながら、通信欄にペンを走らせてほしいものです。義務ではないからと働き方改革で削ってほしくありません。

2026年6月13日土曜日

花だより みんないっしょが本当にいいのか? ハマナス

 

 
 「みんないっしょに」というのは困ったものだ
 運動会の“かけっこ”というのは、おもしろい。子どもたちが一生懸命走っている姿を見ると、心から「がんばれ」と声援を送りたくなります。見ている者も夢中にさせるのが運動会での徒競走です。 ところが一部の運動会は、ゴールしても1番や2番を決めるわけではなく、昔のように1等賞、2等賞というような賞をもらうことはしません。
 ゴールには親がビデオカメラやスマホをかまえて待っているので、わが子が何番だったかは、カメラの中に残されているだけというのが多いのです。
 あらかじめタイムを記録しておいて、同じようなタイムの子を並べて走らせる学校がほとんどです。そして、みんな頑張ったからということで、みんなに「努力賞」を配るところもあるようです。
 なぜこうなったかというと「1等賞がとれなかった子どもやビリになった子どもがかわいそう」という親の真理が働いているようです。
 ある学校の運動会は、昼のお弁当も親と子は別々の場所で食べる。これも「運動会を見に来れなかったお父さんやお母さんがいる子どもはかわいそう」という親の心理が働いています。コロナ以降、運動会は午前中で終了し、お弁当自体ありません。そうした親の思いをそのまま受け止める学校もどうかと思います。
 子どもが「かわいそう」なことはできるだけさせたくないという気持ちは大切です。しかし、それと同じくらい「かわいそう」な状況になったときにどう耐えられるかを子どもが学ぶことも大切です。
 今は「かわいそう」という親の気持ちが大きくなって、どんどん過保護にしています。保護」することと「過保護」にすることは、天と地ほどの大きな差があります。保護者が子どもを「保護」したいというのは理屈ではなく、心の底からにじみ出てくる親の本能でしょう。でも、この気持ちをうまくコントロールしていかないとあふれる本能で「過保護」になってしまいます。気持ちがあふれて暴走しないようにコントロールするのが親の責任です。

2026年6月12日金曜日

花だより 校長百人百様 アカツメクサ フジ

 



 「校長が変われば、学校が変わる」という事実は拭い去ることはできません。校長の職務は法令で定められていますが、学校経営自体は、多種多様で校長の数だけ形と内容は異なり、百人百様の学校経営が存在します。時代や価値観の変化に対応した学校経営が望まれますが、学校の使命や役割は基本的には不易です。これまで学校を活性化させたカリスマと呼ばれた校長先生を何人も見てきました。

(1)ヘッドシップを発揮する牽引型校長
 自分の考えに大方を引き込んで教育経営の実を上げる校長です。若い時から学級経営や教科研究、研究会の講師や助言者を務め、多くの教員から尊敬されている人間的にも優れた校長です。
(2)神輿型といわれる校長
 狭義のリーダーシップを発揮する校長です。神輿を力を合わせて造り、みんなで担ぐ。そのためにみんなの意見をよく聞き、経営の成果を上げている校長です。目立つことは少なくても、多くの教員から親しまれ、信望の厚い校長です。
(3)教員と仲が良くない校長
 「あの校長は何を考えているのか分からん」、「言うことがその都度違う」、「教員をしっかり指導してほしい」など、様々な評価をされている校長がいるのも事実です。ただし、校長は教員と仲が良ければいい。というものではありません。
 カリスマ校長とは、一言でいえば、「威厳、権威(オーソリティ)」でしょう。リーダーシップを発揮する校長は、人間的な魅力を備え、教育実践において常に人一倍研鑽を積み、謙虚であり、人から尊敬されるという共通点があります。これは教師と児童生徒、教師と保護者との関係においても同じです。
 不祥事を起こした学校に赴任したある校長先生に「大変な学校に赴任しましたね。」と労うと「いや、今がドン底でこれ以上下がることはない。これから上がるだけ、先生方もそんな覚悟でいます。見ていてください。」と言ったカリスマ校長がいました。

 

2026年6月11日木曜日

花だより 「80代になるとたいていボケるか死ぬ。70代は神様から与えられた特別な時間」 ボタン

 



 書店1万店9,993店、28年度24,237店をピークに減少 紙の出版物の推定販売金額は50年ぶり1兆円を割る (読売新聞6月7日)
 地方のマチから書店が姿を消した。そんな中で林真理子著 幻冬舎新書「80代になるとたいていボケるか死ぬ。70代は神様から与えられた特別な時間」発売即5万部突破! 
 若者の本離れは進んでいるが、この本を手にするのはたぶん60代以上だろうから、きっと書店で購入しているだろう。自分もそうすることにした。
 “1分1秒を味わい尽くす” 70代は頭も体もまだ大丈夫 それなりに蓄えもある。でも、これまでとは同じことをしていたらダメ。できないことをは諦め、楽しいことを大事にし、人生の新しいステージに立とう。
 ・世間が変わったのではない。自分が老いたということを知るべし。
 ・よそ行きのファストファッションを着てはいけない。
 ・いつも割り勘はNG、されてばかりいるのもNG
 ・買い物の喜びを捨ててはいけない。
 ・誇りをもって第一線から退く、でも仕事はできるだけやめない。
 ・若い人に何か残そうなどと思わない。
 ・老いに逆らわず、小さな努力の成果を楽しむ。
 ・ボランティアは人のためと思わず、自己満足と割り切る。
 ・同じ年代とばかりつるまない。
 ・葬儀や偲ぶ会はパスしない。
 ・あの世なんか信じない。
  林真理子氏も72歳になる。確実に近づく「その日」を見つめ、楽しんで生きるための痛快人生論。70代は人生第2の青春だという。この本はとても参考になりました。

2026年6月10日水曜日

花だより 「どうして勉強しなければならないの?」 それは勉強不足の子がいうセリフ ウツギ ハマカンザシ オオアマナ ダリア

 


Googleレンズは強い味方 道端で目にした花をすぐ教えてくれる

 「どうして勉強しなければならないの?」
 勉強ができる子は言わない。
「算数の勉強て将来役に立つの?」
 算数・数学こそ大事だと、数学の先生は思っている。
「勉強だけできたって…」
 こういうのは東大出のできる人のセリフ。勉強のできる子の親は言わない。
「どうして勉強しなければならないのか、それは勉強していないからわからない。」
 ほとんどの親は、子どもに「勉強しなさい」と言うものです。それは自分が“もっと勉強しておけばよかった”と後悔しているからです。
 子どもたち一人一人に最低限の学力を身に付けさせて社会に送り出すことは、教員に身を置くものとして共通の願いです。生きるために必要な最低限の学力を保証すること、基礎学力を担保してやらなければならないことは言うまでもありません。
 そのためには教師自ら学ぶ(研修)ことが必要です。ところが、最近は研究団体に加入しない教員が増えていると聞きます。今の時代、教育技術等に関する情報は、会費をかけなくても、休日に集まらなくても、ネットで簡単に得ることができるというのが理由のようです。しかし、学び(研修)は、人との交流やディスカッションにより得ることが多いものです。
 “教師にとって研修とは、心の食糧である。その有無は教師の存在にかかる良心であり、教師として生き抜く糧である”(木目澤訓)
 「どうして勉強しなければならないの?」と問われ、「それは、まだまだ勉強が足りないから分からないんだよ。もっと勉強しなさい!」と言えるよう、教師もまた勉強(研修)することが大事です。


2026年6月9日火曜日

花だより 学校評議員と親の会は見方 アヤメ テッセン ブタナ


               
                                    
 これまでの常識では通用しない問題が急増
 ひとり親家庭や共働き家庭では、親が働きながら子育てをするため、ゆっくりと子どもと接する時間が少なくなりがちです。すると休みの日には、子どもを連れて出かけることが多くなり、月曜日は、園でぐったりしている子がいます。休みの日は、家族でのんびり過ごす方がいいと思います。また、保育料無償化により、何でも保育施設がやってくれると勘違いしている親がいます。園で汚れた服を持ち帰るように伝えると、「園で洗ったくれないの?」と平気で言う親もいるようです。「それは、お母さん…。」と説明すると、転園してしまったというのです。私立の園では園児数確保が死活問題です。保育士が園長に理不尽な要求をする親のことを報告すると「聞いてあげなさい。」と言われたとネットに上がっていました。一度聞くと要求がだんだんとエスカレートしたというのです。
 公立の園だと、親が関係部署(教育委員会や福祉課など)にクレームを言うケースがありますが、「園には、注意しておきますから…。」と決して現場を守ってくれるとは限りません。せめて「事実確認をさせてください。」くらいは言ってほしいものです。
 「うちの園ではないのですが、他の園では…」と学校評議員会と親の会の三役会で話題にしたことがありました。すると「もし、うちの園にそんな親がいたら、毅然とした対応をしてください。園の先生方は、一生懸命やってくれています。私たちは、園の味方ですから…」と心強い後押しをしてくれました。そしてそのことを園だよりに載せました。子を思い、精一杯生きている親は、分かってくれています。学校評議員会や園だより(学校だより)は、こうやって活用することです。

昨日の散歩 テッセン ブタナ






2026年6月8日月曜日

花だより 最近の作文指導は? 言葉の精神を忘れない ツリガネソウ キンロバイ ハマカンザシ テッセン

 



 高度情報化社会と言われる今日、新しい様々な言葉は社会にあふれています。しかし、実のところ「言葉」は日々、減り続けているのではないでしょうか。言葉の役割は、二つあります。一つは、何かの必要にせまられて発する言葉、もう一つは、何かに感動した場合などに発する、自分の気持ちや思いを表現する場合の言葉です。
 多くの場合は前者で、メディアから流される膨大な広告情報は、その象徴的な例といってよいでしょう。テレビを見ても、新聞を開いても、目を引くロゴデザインやレイアウトで、そこで語られていることは、「ステキです」「安いです」などという言葉ばかりです。LINEを開くと、そこに並んでいるのは、指示や連絡ばかりで「何々をして」「おねがい」「いいね!」「すごい!」といった類の言葉のオンパレードです。言葉ならまだしも絵文字とスタンプだらけです。
 その一方で、自分の気持ちを表す、心の中から出た言葉に出会うことは、滅多にありません。今はSNSの世界がそうかもしれません。しかし、それらの言葉のほとんどが、自己満足的なつぶやきに過ぎないものだったり、互いの日常生活を写真付きで自慢し合う場になっています。
 ある書家によれば、「字とはもともと人の心が万物に感動してつくり出されたもの」だと言っています。古今和歌集には「大和うたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」とあります。和歌とは人との心を種として、さまざまな言葉の葉が繁ったものなのです。言葉の洪水に押し流されて「言葉」の精神を失うことは、おそらく生きる力そのものを失うことになるに違いありません。学校教育における作文や感想文指導が大切に行われている所以はここにあります。そのためには、良い作文、良い本の読むことです。
 ところが宿題の作文や感想文を子どもたちが生成AIで作成する時代になりました。先生はそれを見抜けるでしょうか?それを判断するのにAIを使う?
  言葉や文化は変化するものです。その流れに反対することはできませんが、言葉の精神は忘れてはならないと思います。