2018年9月22日土曜日

花だより ホオズキ 「開示悟入」の教育


「開示悟入」の教育~アクティブ・ラーニングの基盤となるべき視点として~
                     梶田叡一氏(奈良学園大学学長)
 アクティブ・ラーニングという言葉に、教育会の注目が集まっている。子どもが自分から能動的に、主体的に学んでいく教育が、今、改めて求められているのである。
 しかしながら、子どもの自主性を尊重し過ぎて「好きなことを好きなように学ばせよう」という実質的な指導放棄になってしまったのでは教育にならない。「子どもはそもそも学びたがっている主体的能動的な存在である」などと言う教育学者がいるが、敢えて言えば、それは幻想でしかない。子どもを信頼して任せておく、ということで教育がやれるなら、学校も教師もそもそも不必要なのである。もちろん、これとは逆に、何でもかんでも教えてやればいい、きちんと指示して活動させればいい、ということでは、子どもが受動的になり、依存的になってしまう。これもまた困ったことである。
 学校教育を通じて、生涯にわたって常に自分自身を伸ばしていこうとする自己教育の姿勢と力を育てていかなければならない。指導が強すぎても、指導しないまま放任になっても、自己教育に繋がる教育にはならないのである。
 学習者の能動性、主体性を大事にした教育に当たっては、やはり「開示悟入」を常に念頭に置いて取り組むべきではないだろうか。この言葉は法華教の方便品にあるものである。
「開」は「開く」である。発問や課題提示で子どもの心を開く、課題の世界を開く。ここから教育が始まるわけである。主体的学習の基盤づくりはまさにこれである。
「示」は「示す」。教えることを指示することである。大事な事柄については教師が、どう考えたらよいか、どのようにしたら理解できるか、どのような点に留意して活動すればよいのか、きちんと示さなくてはならない。
「悟」は「悟らしむる」。自分で納得がいくところまでもっていくということである。自己解決力の場を設けるとか、自分の経験や実感と照らし合わせて考えてみる場を設けることも「悟らしむる」ために大事である。アクティブ・ラーニングとして言われる課題解決型学習(PBL)や自主協同学習、反転学習等々にも、こうした基盤が不可欠である。
「入」は「入らしむる」。学んだことを自分の生活の中で使えるようになるところまでもっていくことである。本当に自分の身についた「生きて働く力」にするため、家庭や地域での活動と学校での活動との結合など様々な工夫が必要である。
 「開示悟入」の中には、子ども主導の学びの部分もあれば、教師主導の学びの部分もある。大事なのは「開」によって学習者一人一人に学習意欲や課題意識が生まれ、それが子ども主導の場面でも、教師主導の場面でも、一貫して主体的な学習を貫くものになっていくことである。「開示悟入」という先人の教訓を今こそ思い起こしたいものである。
 梶田先生は、斜里の朝日小学校にいらっしゃったことがあります。私も何度が講演を聞いたことがあります。日本の教育の中枢にいる先生です。「開示悟入」は、普段の授業にも当てはまります。

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