2017年11月2日木曜日

花だより ビート 斜里の甜菜工場 スマホ時代の子どもたち


 月刊「児童心理」特集~スマホ時代の子どもたち~ 2016年7月号
 ~編集後記~
 「スマホ時代の子どもたち」の特集テーマは、何年か前から編集会議の席上に提出されていたが、その都度まだ時期が早いのではと見送ってきたのだった。実は2008年10月号臨時増刊号で「ケイタイ、ネットの闇~子どもの成長への栄養を考える~」を組んだことがある。しかし、意気込んだ割には反響がイマイチだった。小学校の教員からは、「ケイタイもネットも家庭教育の問題で学校現場では関心ありませんから」と言われ、内心「そうじゃないはずなのに」と不満に思った記憶がある。
 しかし、10年近くの間に世は様変わりした。電車の座席では、乗客の7~8割が一心にスマホを触っている。ベビーカーを押して乗ってきた母親は吊革につかまりながら、面前スマホをしている。子どもは所在無げである。クリニックの待合室に病気の子どもを連れてきた母親が、スマホに目をやっている姿を嘆く医師の声も聞く。
 これだけ時代は変わってきたのだからと、思い切って今回「スマホ時代の子どもたち」のテーマを取り上げることにした。おそらく今後スマホユーザーが低年齢化していくことが避けられない状況の下で、そうした趨勢(すうせい)を危惧するだけでなく、「スマホに損なわれない子どもを育てる」のコーナーを最後に設けて、この魅力的ツールとうまく共存していける逞しい子どもを育てようとする、難しい今後の教育課題についても論じていただいた。8年前の失敗の挽回ができたかどうか、読者の方々のご賢察を待ちたいと思います。
  ソサイエティ(social)・仲間・社会 
 福澤諭吉先生の書物には“社会”という言葉は一つも出てこない。社会は英語で“ソサイエティ”であるが、先生はそれを“仲間”と訳していた。“ソサイエティ”はラテン語でソシウス(仲間)を語源とする。ラテン語を十分理解していた先生には「ソサイエティ」=「仲間」だった。今の日本では、このソシウスという仲間意識が薄い。社会とはメリットやデメリットを共有する者同士で作るものではない。相手を思いやる仲間意識が良き社会に他ならない。[social]を辞書で調べてみると、「社会」の他に、「社交的な、懇親の、交際上手な、打ち解けた」とある。
  SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)は、人と人との現実の関係をインターネットを使って補助するコミュニケーションのことで、SNSの場合は、匿名ではなく、参加者個人を明確にすることになっている。それはそれでいいのだが、インターネットを介さないと、相手を思いやる仲間意識が築けない社会に来るとは、福澤諭吉先生も思いもよらなかったでしょう。
 


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