2024年7月14日日曜日

花だより 今こそ論語に学ぶ 昼顔 アガパンサス

 


《論語に学ぶ》
 サイバー攻撃、SNS上での詐欺行為、誹謗中傷などなど、世の中が乱れて住みにくくなると『論語』がもてはやされるという。近い将来、本屋に行くと『論語』の本がずらりと並んでいる光景が見られるかもしれない。(今はネット通販か?)
『論語』というと“儒教の聖典”と呼ばれ、多くの政治家や経営者たちが座右の書としていました。そのため、難しいと思われがちですが、複雑な人間関係の中で、人として何を守るべきなのか、その心構えと実践を説いたものです。「人格を鍛える本」といっても過言ではないでしょう。誰もが一人前の社会人であろうとするならば、常識として備えて置かなければならない「人の道」なのです。
 第一章 学而編十 「学問は自分を磨くためにある」
 「学問は自分自身の教養を深めるためで、人に知られるためにやるわけではないのです。学問が進み人格が備わったことを、人が知るか知るまいが、そんなことはどうでもいいことです。それより他人の真価を見抜けない自分の能力の低いことを憂うべきです。」 
 北海道、特にオホーツク管内は、全国最低レベルの学力に低迷しています。それを行政や学力テストそのものを批判する人がいます。それより現実を真摯に受け止めるべきです。教師自身の能力の低さを憂うべきです。とにかくやるべきことはきちんとやらなければならないのです。
《「教育は人なり」語り尽くされた言葉だが、ここに行き着く》
 特別支援学級の子を見ていて、つくづく思うことがあります。ある先生にはよく懐くが、ソリの合わない先生には、悪態をついて毛嫌いする。障害はあっても本能的なものは逆に研ぎ澄まされているような気がします。
 父子家庭の男子は、先生方がどんなに優しく声をかけても言うことも聞かないが、母親を想起するような女性の支援員さんだけには懐いたのです。その支援員さんは、「あの子、かわいいところあるんですよ。」といつも笑顔で接するのです。「何という悪ガキだ!親の顔を見てみたい?」と思って接すると、彼はそれを察知するのです。
「人格の完成」が教育の目的です。故に、教える教師の人格が問われるのです。

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