2017年10月28日土曜日

花だより センブリ おもちゃカボチャ 教師の多忙さと子どもの居場所


 ≪教師の多忙さと子どもの居場所≫
 家庭のみならず世の中の多忙さが、学校への子育て機能への期待(と批判)の高まりを生み、それこそが教師を多忙にしている。多忙さは居場所づくりをどちらかというと阻害するものである。多忙な教師に気に入られるために、よい子でいなければ学校に居にくくなる。一部のお気に入りの子ども以外は、居ても居なくてもよい存在になりかねない。教師はもちろんそのことに気づいていて、すべての子どもたちにしっかりと向きあおうとする。そうするとますます多忙となる。教師のメンタルヘルスの悪化は、このようないたちごっこのような循環があるように感じる。
そのような厳しい環境ではあるが、教師は授業を持っている。授業という時間や空間、内容がしっかりと構造化された場では、子どもが楽しいと目を輝かせ、できないことができるようになったという実感を持ち、もっとおもしろい世界があるという誘いに食らいつく、そんな授業を教師はしたいと思う。そのような授業の場こそが「居場所」として最高の場となろう。
 このようなことは、別に私が指摘しなくても、ほとんどの教師が、そして子どもたちが知っていることである。しかし、授業が居場所として機能しにくくなる場合がある。休み時間や放課後などの自由な時間での同級生とのかかわり合いの中で、居場所を見いだせるかどうかが、児童生徒の授業への身の入り方に影響する場合がある。授業時間以外の場への目配りは、多忙な教師ほど余裕がなく手薄になる可能性がある。児童生徒と用事もないのに自然と雑談をしあえる時間の確保は、多忙な教師には極めて難しいであろう。ましてや、授業以外の見えない事柄を想像するには、あれこれ考える心の余裕と時間の余裕が必要となる。
 学校にせよ家庭にせよ大人の忙しさは、子どもをさびしい気持ちにさせ、いわゆる居場所感を減じさせることになる。朝早く出かけ夜遅く帰宅する父親、せわしなく動き自分の話をしっかり聞いてくれない母親、両親の多忙さが子どもの自尊心低下につながるとの指摘がなされることがある。
 しかし、父母が仕事や家事から解放されて子育てに十分時間を割くことができた時代が今までにあっただろうか。そのかわりに、祖父母や親戚、多数のきょうだい、近所の同世代の子どもたちが、幼子の面倒を見、子どもの育ちを見守り、切磋琢磨して成長するコミュニティ(居場所)がかつてはあった。このような場が、現代社会では学校とならざると得なくなっている。子どもの減少や親戚関係の縮小、近所づきあいの希薄化の中で、学校はコミュニティの育ちを保障するための居場所的役割が増している。
                           帝京大学教授 元永 拓郎

 星槎大学院の阿部利彦準教授は、全国の小学校を回り、学級観察をする中で最近の子どもたちの傾向を次のように述べている。
・先生に自分だけ大切にされたい ・自分に敏感で相手に鈍い ・楽なことに流れる 
・気持ちを切り替えることが苦手
 今の時代の教師は、一昔前のように気になる子だけに注目するのではなく、すべての子どもを気にしなければいけない時代といえるかもしれない。

 

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