//////学校は地域と共にある//////
若松小学校開校100周年記念式典 平成25年3月2日
第21代校長として出席してきました。(現在は24代櫻田弘道校長)
明治41年、熊笹の生い茂る原野に先達が開拓の一鍬をおろしてから105年。厳しく苦しい開拓を乗り越え定住が進むにつれて、子どもたちの将来を思い、教育の重要性を痛感した先人諸賢が土地と資材を提供して、大正2年に野付牛尋常高等小学校所属若松教授場が開校しました。若松という名称は、土地と資材の提供者の出身地が会津若松だったことから、学校名を若松として地域の名称ともなりました。
平成3年、校舎の老朽化に伴い全面改築の話が持ち上がりましたが、当時の見解は、将来に渡り児童数が少ない見込みから廃校というものでした。そこで小規模校ならではの特色ある教育活動とそれを支える地域の協力があれば、市内全域の児童が希望すると通学できる特認校に若松小学校を指定し、学校の存続と全面改築の両方を可能にするという案が出されました。しかし、管内では前例がなく地域の皆さんの理解が得られるか不安でしたが、当時の自治会長さんはじめ地域の皆様の格別な協力により、新しい土地の提供も受けて平成7年に全面改築の運びとなりました。
平成8年、小鳥をモチーフにした斬新なデザインの校舎が完成しました。「特別認可校」の指定を受け新たな若松小学校がスタートしました。以来、校区外からの児童を受け入れ、特色ある教育活動を推進しています。特に体力づくりでは、サイクリングやスキー、強歩遠足、リコーダー、オペレッタの上演、地域の清掃活動など、自然環境に恵まれた小規模校の特色を生かし、教育成果をあげています。 (記念誌「道とわに」から)
式典には、地元の方が多く参列していました。その中に在職中大変お世話になった98歳になるおじいさんも来ていました。博学な方で若松の歴史を何度も聞かせてもらいました。北小に赴任してすぐ電話をいただきました。「北見に戻ってきたんですね。お願いがある。記念誌の題字を頼まれたんだが、もう手が震えて書けん。代わりに書いてもらえんだろうか。」と頼まれました。70歳になる息子さんも同席されていて、「私より元気なんです。今は、般若心経を写経するのを毎日の日課にしています。」と言っていました。おじいさんの言葉に「健康で長生きするのが人生の目的ではない。やりたいことがまだまだあるから健康でいたいんだ。」と100歳近い人生の大先輩の言葉は重みがあります。
在職中、地域の皆さんには大変お世話になりました。地元の子どもがほとんどいなくなっても学校に対してさまざまな協力をしていただきました。山菜をいただいたり、地域の行事に参加したり、楽しい3年間でした。
また、こんな話もしていました。「これからの農家は、収量のデータ管理、農薬や肥料をまく時期や効果の検証、財務管理、市場調査、交渉力など、体より頭を使うようになる。校長先生、学問は必要だ。これは昔から変わらないことなんだよ。だから学校を大切にしなければならない。」と…。
式典に参加して、地域のつながりが希薄になったといわれる時代にあって、学校は地域と共にある。教育の第一の責任者は親である。学校・家庭・地域の連携の大切さを再認識しました。
2日の猛吹雪 吹雪の怖さを知っているはずの私たちなのに?
式典が行われた日の昼間は、穏やかな天気でしたが夕方4時過ぎ頃から猛吹雪になりました。6時半から居酒屋での会合が予定されていました。5時半に担当者から電話があり、「荒れ模様なので中止しては…。」と伝えましたが、既に何人かは家を出ているというのでやることにしました。参加者は予定の半分でした。会合は簡単に済ませ、乾杯をして(ビール1杯)早々にお開きにしました。ところが隣の部屋から子どものはしゃぎ声が聞こえ、ワイワイガヤガヤ盛り上がっています。聞くと「ママ友の会」で20人ほど集まりだというのです。外に出るとタクシーが止まっていました。運転手さんに聞くと、「今ならまだ走れますが、これからどうなるか分かりません。」と心配していました。次の日、管内でも吹雪による犠牲者が出たというニュースに驚きました。あの「ママ友の会」は、無事に帰れたのだろうかと心配になりました。
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