教育に関する格言 『教學半』~教うるは学ぶの半ばなり~ 教育大旭川校には師範学校時代から、伝統的に「教学半」という 教えがあります。中国の周から漢の時代に儒学者がまとめた 礼記(らいき)に出てくる言葉です。
人を教えるときには、調べ直したり知識を整理し直したりするから、半分は自分が学ぶことになる。
教えることは、学ぶことの半ば、つまり、どれだけ学んでも、自分が学ぶだけでは、まだ半分の状態であり、人に教えることで 本当の学びになり 自分のものになるということです。言い換えれば、インプットしたら、必ずアウトプットする。半分で終わらせないようにということです。
また、「あなたは、教えることも、学ぶことも、まだ半人前だよ」とも解釈できます。
『一人を粗末にしたとき 教育はその光りを失う』 大正から昭和にかけての教育者、安部清美氏の愛と情熱の教育格言です。
氏は後に福岡県教育界を導き、参議院議員となり、多くの教育書を残して昭和56年81歳、永眠。3歳の時、日露戦争で父を亡くし、貧苦に耐え祖父の支えで福岡師範を出て、大正9年神興小学校に赴任。その一歩目、担任したのは4年生。そのときの学童であった金森イソの死に直面した。運動会の練習中の心臓麻痺だった。直前まで安部先生に甘えていた子どもだった。子どもを本当に知っていなかった、と教師の現実に苦悶し、悩み、自殺直前まで追い込まれていく。そこから「神興教育」が立ち上がっていくのでした。
汝、子どものすべてを知るべし 汝、子どもと無心で遊ぶべし 汝、子どもと掃除をするべし
その子を知り尽くす。その子を取り巻く環境を理解して導く、という教育姿勢は、その日から全員の家庭をまわり、家族と語り村長と語り、地域青年団修養会までも結成し、地域社会全体を見据えた教育へと発展していきました。
必要なのは「謙虚さ」“実るほど頭を垂れる稲穂かな” 校長会歓迎・交流会のあいさつに立った管内教育長部会の河原部会長(遠軽町教育委員会教育長)は、新任校長に向かって、「間違っても偉くなったと思わないように…」と語りました。
歓迎会の席で、校長のところに酒をつ注ぎに来る職員がいませんでした。「この学校の職員は、どうなっているんだ!」呆れ果てました。
網走市教育委員会の歓迎会のときのことです。木目澤教育長さんは率先して、お酒を注いで周り、一人ずつ声をかけているのです。そんな教育長ですから、宴席では、多くの校長が列をなして、ビールを注ぐ順番を待っているのです。
北見市の佐藤教育長も同じです。北見の場合は、人数が多いので一回りするだけでも相当の時間がかかりますが、お酒を注ぎ、一声掛けることを怠りません。
“自分は決して慢心したことはない、校長だからと偉そうにしたことはない。”と思っていましたが、どこかにそんな思いがあったのかもしれないと反省させられました。
“人は尊敬する人からしか、学ぼうとしない”という格言がありますが、“人は尊敬する人にしか、お酒は注がない”ということでしょうか?
心から尊敬する人、憧れる人は、お金持ちではなく、社会的に成功しているわけでもなく、有名人でもないかもしれません。それでも、人々から慕われ、尊敬される人が存在します。他の人と何が違うのでしょうか。与える達人であり、寛大で、利他(他人の幸福をまず願うこと)の心を持ち、見返りを求めない人です。教師もそうでありたいと思うのです。
カタクリが咲く季節になりました。 花言葉は「初恋」「嫉妬」「寂しさに耐える」です。早春の短期間に花を咲かせ、「春の妖精」とも呼ばれています。春早く、他の花に先がけて花を咲かせ、逆にまわりの木々や草がすっかり緑になる季節になると地上から全く姿を消してしまう植物のことをヨーロッパでは「スプリング・エフェメラル”春のはかない命”」と呼んでいる(エフェメラとは「かげろう」のこと)。端野に分布した群落が日本の分布域の東端とされています。