いじめ重大事故対応の裏側で
いじめによって命を絶つ子どもが後を絶ちません。遺族の心中を察するに余りあります。また、第三者委員会の報告に遺族が不服を申し立て、文科省の指導で新たな委員会が設けられ、報告内容が覆ったりするなど、「いじめ重大事故対応」は社会問題になっています。
そんな中で、別な視点からこの問題をとらえている福田まゆみ氏の意見を紹介します。
「いじめられた」と言えば、「いじめ」でよいのか
ノンフィクション作家 福田 ますみ
(平成29年「月刊教職研修」6月号)
1 過剰な被害者意識が教師を追い詰める
福田氏は、学校を舞台にしたノンフィクションを2冊出版(『でっちあげ福岡「殺人教師」事件の真相』『モンスターマザー長野・丸子実業「いじめ自殺事件」教師たちの闘い』)している。両方ともいわゆるモンスターペアレントが、「我が子がいじめられている」と学校や教師に猛抗議して被害をでっちあげた事件だ。
二つの事件はマスコミで大々的に報じられ、加害者とされた教師や児童生徒たちは猛烈なバッシングにさらされた。ところが、いじめや体罰は無実無根だったのである。母親らは,常人では考えられない虚言を弄してマスコミや世間をだまし、教師たちを追い詰めたのだ。
ここまでひどくなくとも、似たような事件はあちこちの学校で起きている。保護者からの恫喝や脅しによって、いじめ・体罰教師に仕立てあげられてしまった中学校教師のケース。「いじめられた側がいじめだと言えばいじめだ」という片方の主張だけで、わけの分からないままいじめの加害者にされてしまった、助けてくださいと手紙で訴えてきたケースなど。拙著が出版された直後から、学校関係者からの相談が相次いでいる。被害妄想に取りつかれた保護者が、存在しないいじめを執拗に訴え、その過剰な被害者意識が学校運営の妨げになっている。
2 曖昧ないじめの定義が仇をなすことも
悪質ないじめがなくならないのは問題である。しかし一方で、こうしたトラブルも続発している。この事実を考えると、文科省が策定したいじめの定義が昨今どんどん曖昧になっていることに不安を覚える。
同法が、11年に滋賀県大津市の中学校で起きたいじめ自殺事件をきっかけに成立したことは周知の事実である。被害者・加害者が頻繁に入れ替わり、陰湿化・巧妙化するいじめから児童生徒を守るために定義の基準を緩めたことは分かる。
しかし反面、これではいくらでも拡大解釈が可能だ。「ぼくはあいつにいじめられている」と誰かを名指しすれば、その児童生徒があっという間に「いじめっ子」にされかねない。文科省は、被害者に寄り沿おうとするあまり、こうした二次被害をまったく想定していない。そもそも「いじめられた側がいじめだと言えばいじめ」「子どもが体罰だといえば体罰」などといった主張は、あまりにも一方的で言ったもの勝ちだ。
3 公平中立に立つ勇気
被害者の立場に立つことは当然である。だが、いじめの事実をめぐって争いが起きた場合、調査する者が「いじめられた側がいじめだと言えば~」という思い込みにとらわれ過ぎると、かえって真実究明の妨げになり、新たな被害者をつくってしまうのではないだろうか。重要なことは、むしろ予断を排して公平中立に、いじめられた側・いじめた側の言い分をよく聞くことだと思う。
保護者や子どもがいじめを訴えてくる場合、真偽の判断がむずかしいケースが存在する。そのとき、いじめられた側の被害者を尊重する対応を教師は求められる。しかし、それに過度に縛られると逆に真実を見誤り、無辜の児童生徒にあらぬ疑いをかける危険が生じることを肝に銘じておいてほしい。
「国家の品格」著者の藤原正彦氏は、「いじめ問題」に対してこう述べています。
「卑怯」を教えよ いじめに対して何をなすべきか。カウンセラーを置く。などという
対処療法より、武士道精神にのっとって「卑怯」を教えないといけない。「いじめが多いからカウンセラーを置きましょう」という単純な論理に比べ「いじめが多いから卑怯を教えましょうは論理的でないから、国民に受けません。しかし、いじめを本当に減らしたいなら、「大勢で一人をやっつけることは文句なし卑怯である」ということを叩き込まないといけない。たとえ、いじめている側の子どもたちが清く正しく美しくて、いじめられている側の性格がひん曲がって大嘘つきだとしても、です。「そんな奴なら大勢で制裁してもいいじゃないか」というのは論理の話。「卑怯」というのはそういう論理を超越して、とにかく「ダメなものはダメ」だということです。この世の中には、論理に乗らないが大切なことがある。それを徹底的に叩き込むしかありません。いじめをするような卑怯ものは生きる価値すらない、ということをとことん叩き込むのです。
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