北極星はどこにあるか
京都市教育委員会教育企画監 荒瀬 克己
方角を知らない船は進めない。学校も似ている。たとえ順風満帆であっても、度重なる難事を乗り越えいかなければならない場合でも、常に方角を知っているからこそ目的地をめざせる。学校も新たなものに取り組む際にはもちろん、日常の営みを積み上げていくことでさえ方角を知ることが必要だが、それを示すのは誰か。
ある新任校長が、「校長になったら、ああしよう、こうしようと思っていたのですが、はっきり言って怖いですね。」と言う。
校長はなぜ怖いか。毎朝、子どもたちが学校に来る。次の日も、また次の日も、それが繰り返される。しかも子どもたちはたいてい無事である。もちろん無事でなければならない。毎日の無事を日常と呼ぶのだが、ならば、日常とは奇跡の連続である。
なぜ怖いか。学校には様々な事柄や事態に対応しなければならない。子どもたちの様子、教職員の状況、保護者への説明、外部との関わり、教育委員会とのやりとり、枚挙にいとまのない諸々の動きの、そのトップに校長がいる。学校経営の最高責任者であり、最終責任者である。つまり、後ろには誰もいない。もちろん設置者である教育委員会はあるが、学校内のすべての責任が校長にある。仕事はチームで進めても、最後の責任はひとりで負う。孤独な日々だ。
なぜ怖いか。自分をさらけ出さなければならない場面が多い。式はもとより多くの機会に子どもたちや保護者に何を話すか、どんな文章を書くか。これは誰にも頼めない。当然、様々な判断も自分でしなければならない。自分自身の進退についてもそうである。自分ひとりでしなければならない。足が震えるけれど、そこから逃げることはできない。
みんなが校長を見ている。校長が、子どもたちや教員を守っているか。務めを果たしているか。多くの視線を感じる。これで怖くない人はいないだろう。
校長の適性とは、周りに助けてもらえるかどうかということのようだ。しかし、心ある周りの人たちも、その場にいない校長を支えることはできない。だから、支えてもらわなければならない者は、怖さに耐え、何とか力を振り絞って、その場にひとりで立ち続けていなければならない。
現場は、いま、そこにしかない。お手本はあっても、いつどこでもその通りいくとは限らない。自分で考えるしかない。その際、自分の学校経営の軸になるものを持っていたい。それは自分にとっての北極星を探すようなものだ。
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