平野嘉子女史を偲んで 大和撫子(2)
平野校長先生は、私が教頭として初めて仕えた校長先生で、管理職の「いろは」を教わった恩師でもあります。本岐小学校の教頭に決まったとき、「平野校長の下で働くのか?気の毒だな。すごく厳しいらしいぞ!」と周囲から言われ覚悟して赴任しました。
初日、前任の教頭先生からの引継ぎで、「朝は子どもたちがバスで8時くらいに来るので、7時半くらいに出勤して、校長との打ち合わせは、7時50分頃でいい。」と言われ、それでも若干早く出勤したのですが、すでに平野校長先生は職員室におられて、お茶を入れて待っていました。
次の日、7時15分くらいに行くと、また、私より早く来ていました。3日目から、7時に出勤しました。すると次の日から、校長先生は7時50分頃に来るようになりました。「もっと早く来なさい。」とは直接言われませんでしたが、お茶を入れて待っていると、「あなたより、私の方がお茶の入れ方は上手だわ。気を遣わなくていいわよ。」と言われた。
朝は、年配の用務員さんが7時前には来るので、用務員さんと話をする時間がたっぷりできました。学校のこと(歴代の校長、教頭の話など)、校舎の不備なところ、地域のこと、保護者のことから、山菜の採れる場所までいろいろな話を聞くことができました。“早起きは三文の得”とは、よく言ったものです。校長先生のねらいはここにあったのかと思いました。
平野校長先生は、「教室が汚いわよ。ちゃんと掃除しているの?」「職員室の机の上は、いつもきれいに整頓しておきなさい。」「なによ。あの授業は、あれじゃ子どもたちは分からないわよ。」と年配の先生にも遠慮することなく、特に若い先生にはいつも厳しく指導していました。
本岐小学校は、校舎が古く、職員5名中、新卒が3名の学校で、おまけにその年は、管内のへき複の研究大会が当たっていました。「研究大会は、牧野教頭さんに任せたわよ。恥ずかしくない研究会にするのよ。」と命じられました。先生方と夏休みに壁の塗装や床磨き、教材室や資料室の整理をしました。指導案の検討、複式授業の基礎から大会紀要の作成など諸々、教頭1年目にいろいろなことを経験させてもらいました。その間も直接何かを言われたり、注意を受けたりすることはなく、赴任前の評判とはずいぶん違う印象を持ちました。
研究大会の閉会式、校長のあいさつで、いつも堂々と流暢なあいさつをされる平野校長先生が、一瞬言葉が詰まり、涙声になり、「こうして大会が無事終了できたのは、職員が一丸となって取り組んでくれたお陰です。」と話されたとき、いつも厳しく凛とした校長先生の優しい(女性らしい)一面を見ることができました。それ以降さらに職員が一つにまとまったように思います。
私に筑波の国立教育研究所の中央研修の話がありました。時期が1月末から6週間で年度末と重なり、校長先生は出してくれるはずがないと思っていましたが、「木目様の推薦だもの、行ってらっしゃい。」(当時木目澤先生はオホーツク教育局の指導主幹をされていました。)と快諾してくれました。平野校長先生のお陰で貴重な研修の機会を得ることができました。
そんな平野校長先生がある日、「私が教員になったときは、女性教員がまだ少なく、“何だ!女の先公か?女のくせに”今でいうセクハラよね。私の性格だもの、なよなよなんかしていられなかった。男なんかに負けない。そんな思いでずっとやってきたのよ。」と話されたことがありました。確かに負けず嫌いできつい性格だと感じていましたが、当時の職員の中には、山口県に異動した教員がいて、「○○さん、元気でやってますか?」と何度も電話をいただいたと言っていました。私にも異動する度に、「牧野さんは、牧野さんらしくやりなさい。それからね。前の髪型の方がお似合いよ。」(本岐小時代は、パーマをかけていました。)と平野校長先生らしい励ましの言葉を何度もかけてもらったことを思い出します。心優しい気遣いのある校長先生でした。
そんな平野校長先生が亡くなって10年が経ちました。