“ほんもの総合”への道は厳しい
「総合的な学習の時間」(総合)の指導案の目標に「みんなで力を合わせて上手にソバ打ちができるようになる」と書いてあったりする。もし、クラス全員が将来おそば屋さんになるのなら、その目標で「自己の生き方を考えることができるようになる」だろう。しかし、総合は、そうではありません。「出会う」「つかむ」「調べる」「生かす」4段階万能構造が総合だと思ったら大きな間違いです。
総合的な学習の時間が迷走し、誤解される最大の理由は、その名前にあるのではないか。つまり、「総合的な学習」というと何かを総合的に教えなければならないと思うかもしれない。本当は、学び方、考える力を育成し、問題解決能力を高めるという応用問題の訓練なのだから、「総合的な思考の時間」と変えた方がいいと主張する人もいます。
「何でもありきの総合」「ねらいの理解不十分な総合」が多いのではないか?
もし、教科の補充的指導への転用などごまかしがあるとすれば、校長は法令違反が問われるはずである。スタートとゴールをまずはっきり決めるべきです。
「総合」の迷走 20年経過して、総合がよくなるどころか、さらに後退したかもしれないのです。総合は、その内容が学校に任されました。これも教師の力量(プロデュース力)が試されているのです。他教科と違い新たに企画・構成することが煩わしいと思うと「ごまかし総合」になるのです。
🤷♂️最近は、総合をどうするか学校現場で議論することがなくなりました。コロナ禍で臨休になったとき、現場では「生活科と総合の時間を国語や算数に当てる」と言い出した教員がいたそうです。今一度考え直す時期に来ているのではないかと思います。
「総合」の迷走 20年経過して、総合がよくなるどころか、さらに後退したかもしれないのです。総合は、その内容が学校に任されました。これも教師の力量(プロデュース力)が試されているのです。他教科と違い新たに企画・構成することが煩わしいと思うと「ごまかし総合」になるのです。
🤷♂️最近は、総合をどうするか学校現場で議論することがなくなりました。コロナ禍で臨休になったとき、現場では「生活科と総合の時間を国語や算数に当てる」と言い出した教員がいたそうです。今一度考え直す時期に来ているのではないかと思います。
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