2019年10月12日土曜日

花だより ネット社会での危機管理 シュウメイギク


≪ネット社会での危機管理≫
                 アドラー心理学実践家 椎 名  薫
 いま私たちは、たくさんのデジタル機器に囲まれ、スマートフォンを体の一部のように生活しています。このようなネット社会を踏まえた危機管理を考えることが、今日的課題と言えるでしょう。
 ネット社会は情報の画一化をもたらします。誰かの極端な意見、あるいはちょっと口を滑らした失言に敏感に反応し、不謹慎、非常識、無神経だと声が上がり、あっという間に非難・炎上です。その一方で、多くの人たちは自分でものを考えることをせずに、ただちにスマホ画面をタッチして、そこに集まる大多数の意見に影響されます。これは一見、個性的な考えに見えて、みんな同じようなことを言っています。そして、本当に因果関係があるのか、道理にかなっているかなど怪しく思われることがあります。
 一例を挙げれば、いじめの問題がそうです。昨今はいじめ問題イコール学校と教育委員会が「おかしい」という論調が主流です。識者もマスコミも、そこに原因を収斂し非難と糾弾を繰り返します。学校には、「隠ぺい」的体質がある、教室は「密室」だから何が起こっているかわからない…。何か事が起こると「(学校は)○○ってことですか?」と、いまの社会通念を押し付けて事件の解決を求めます。さらに状況がこじれはじめると、「(学校は)逃げる」、そして担任は「辞めろ」とたやすく進退問題にエスカレートします。
 ネット社会の特性として、それぞれが自分の考えをもって行動するのではなく、ある限られたキーワードによって組み立てられたパターンに従っているところがあります。そして、個人の直接的な利害に結びつかなければ無関心なのに「~であるべき」との評論で賑わうのもその特徴です。学校で発生する危機は、オーバーに宣伝され、その火消しに終始しなければならないケースがしばしばあるのではないでしょうか?
 これからの危機管理意識で重要なことは対応の迅速さです。どの学校も「ホウ・レン・ソウ」で対応に当たるでしょうが、そればネット時代のスピードに即応しているでしょうか?いじめ問題で考えるならば、初動対応で後れを取らないことです。また、情報の真偽をよく見極め、的を射た対処を心がけたいものです。
≪だれの責任なのか 誰がリスクを引き受けるか≫
 ネット社会が私たちの日常を次々と変容させているのに、学校は相変わらずアナログ的な教師の「手仕事」による管理及び処理を行っています。キャッシュレス、ペーパーレスの時代なのに、なぜ学校(だけ)は旧態依然なのか?保護者の人たちの大半はそう思っているでしょう。集金は集金袋、家庭との連絡は「おたより帳」、学習内容や持ち物など、毎日数枚のプリントを渡します。プリントの中には、子どもの情報を記入させて回収するものなど、個人情報がそのまま載っています。学校現場ではありふれた光景ですが、これはかなりのリスクを伴っています。現金が教室にあったり、個人情報が身近に置かれていること自体が問題で、何か事が起こったら、そこに遡って危機管理が問われることでしょう。
 情報化社会の中で、一人置いてけぼりにされた感のある学校現場にネットシステムを導入しようと思えば決してできないことではありません。集金は、銀行口座やネット銀行、学校からの連絡はメール配信、個人情報はクラウドシステムへ、そうすれば教師たちの紙ベースの膨大な事務処理は大幅に軽減され、必然的に教育の質がアップするはずです。
 しかしながら、これば言わば机上の空論に近く、学校の特殊性を踏まえて考えれば様々な壁にぶち当たります。一口に集金と言っても、教材費、赤い羽根、緑の羽根などの募金、PTA会費など、勧進元が多方面にわたります。いろいろな経緯があってアバウトに学校・教師に「おまかせ」の状態なのです。まずはその交通整理をしなければネットシステムはかえって災いをもたらします。
 学校は担任を窓口とする仕事が多すぎること、そして職員室という一つの部屋で指導案や成績処理、文書作成、備品営繕、その他の物品管理などなど多種多様な仕事をこなしているということも指摘しておかなければなりません。「学校は遅れている、だからネット導入だ」ではなく、学校、家庭、各関係機関の責任をより明確にし、線引きした上でのネット利用が望まれます。
 ≪新学習指導要領の実施のもとで≫
 新学習指導要領の実施の時期を迎えています。「社会に開かれた教育課程」と銘打ち、カリキュラムをマネジメントして、そこにプログラミング教育、小学校では英語、そして、現代的諸課題への対応、スピードを増しているネット社会の変化に応えるべく多様な内容など、新機軸が目白押しです。
 しかし、一読してため息が出てしまいます。一体これをいつ、どこでやるのか。いまだって子どもたちは、ガチガチに組まれた分刻みの日課表のもと、休み時間も各学校独自の「○○タイム」で実質つぶされることが多いため、一日を終えると高学年はクタクタです。新学習指導要領は「学習内容の削減は行わない」と明言し、内容もより高度になっています。現在の状況にさらに新しい活動が盛り込まれれば、ますます息が詰まってしまいます。
 しかし、そんな姿を知ってか知らずか、ネット上では、アメリカの学習プログラムを見よ、フィンランドメソッドを見習い子ども主体の授業を、などと優れた授業サンプルが提示されています。それは分かりますが、それぞれのお国の事業と学校への期待が違うのです。
 一例を挙げれば、いわゆる学校行事にこれほど準備時間を費やす国はないでしょう。他の国でも運動会や遠足、修学旅行などはありますが、原則として自由参加です。また、いわゆる集団行動という発想そのものが無いのです。教師たちが声をからして訓練する整列や全体行進、さらに組体操を外国の人たちが見たらどう感じるでしょう。
 子どもたちにいま必要なのは、メンタルヘルスであり、ホッとした時間を与える心身の均衡をとることです。ネット社会はどこまでも速い・簡単・便利を追求しますが、その代償として私たちは常に忙しく慌ただしく暮らさなければなりません。したがって、教師は、子どもの学習意欲を鼓舞する一方でストレスマネジメントに心を砕かなければならいでしょう。
 また、学校における最も急務の課題は、学校行事の精選・削減であり、小学校のクラブのような教科・領域に属さないものは、いままでの習慣にとらわれず思い切って止めるべきです。かつて学校の「スリム化」、最近は「断捨離」などと言われますが、まだまだ足踏み状態と言ってよいでしょう。
 新教育課程の中で、こうした取り組みがまさに「子どもたちを守る」という危機管理の基本として考えるべきではないでしょうか?


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