校長として何をなすべきか~『論語』に学ぶべし~
第一章 学而編一 「人生の最上の楽しみ」
「孔子先生がおっしゃった。学問を学び、それを反復すれば自分のものとなり、こんなに喜ばしいことはない。また、学んでいると同学同志の友が遠方より訪ねて来て、ともに語り合い、いっそう楽しくなる。たとえ学問が成就したことを世間の人が認めてくれなかったとしても、それを嘆くことはあるまい。その道を求めていく人を君子というのだから…。」とある。
第二章 為政編十九 「まず実行せよ」
孔子の高弟が「君子とはどのような者か」と聞いた。孔子は答える。「君子とは、まず行動を先に見せ、その後にものをいうものである。」
第一章 学而編十 「学問は自分を磨くためにある」
「学問は自分自身の教養を深めるためで、人に知られるためにやるわけではない。学問が進み人格が備わったことを、人が知るか知るまいが、そんなことはどうでもいいことだ。それより他人の真価を見抜けない自分の能力の低いことを憂うべきである。」
👀《論語に学ぶ》
世の中が乱れて住みにくくなると『論語』がもてはやされるという。『論語』というと“儒教の聖典”と呼ばれ、政治家や経営者たちが座右の書としていた。そのため、難しいと思われがちだが、複雑な人間関係の中で、人として何を守るべきなのか、その心構えと実践を説いたものである。「人格を鍛える本」といっても過言ではない。誰もが一人前の社会人であろうとするならば、常識として備えて置かなければならない「人の道」なのである。
第一章 学而編四 「学問は人格形成が第一」
「人徳を備えた人物になるように努力することをまず実行して、さらに余力があるならば、本を読んで教養を付けるとよい。」
第一章 学而編五 「理論よりも行動」
「ある人を見ていると、師を尊敬するのにまるで美女を好むように接し、父母に仕えてはあらんかぎりの孝行を尽くし、君主に仕えては一身をささげて忠義を尽くし、友だちと交際するときは誠実をモットーとしている。この人は自分には学問がないというが、ここまでできる人は学問が完成した人だといってよい。こうしたことができる人は、人の道をつかんでいるからであり、立派な学者以上の人といえる。」
第十七章 陽貨編一八八 「学ぶことで人の差が出る」
「人の本性は誰でも似たようなものであるが、学ぶことによってそれぞれ違ってくる。」
態度の悪い問題児Aが校長室にやってきた。担任から厳しく説教してくれと頼まれたのだ。罰として、論語を暗記させることにした。Aが通う児童館に行くと、若い女性指導員から、「校長先生は、校長室で子どもたちに『論語』を教えているのですか?」と聞かれた。Aから、“孔子先生が言うには、言葉巧みにおべんちゃらを言ったり、外見の体裁やファッションだけにこだわるような人は、本当の仁(優しさ)とはほど遠い者だ。”「先生も気を付けなさい。」と言われたそうだ。
👀《「教育は人なり」語り尽くされた言葉だが、ここに行き着く》
特別支援学級の子を見ていて、つくづく思うことがある。ある先生にはよくなつくが、ソリの合わない先生には、悪態をついて毛嫌いする。障害はあっても本能的なものは逆に研ぎ澄まされているような気がする。
父子家庭の男子は、先生方がどんなに優しく声をかけても言うことも聞かなかったが、母親を想起するような女性の支援員さんだけには懐いた。その支援員さんは、「あの子、かわいいところあるんですよ。」と笑顔で接するのだ。「何という悪ガキだ!親の顔を見てみたい?」と思って接すると、彼はそれを察知するのである。
👍「人格の完成」が教育の目的である。故に、教える教師の人格が問われる。
日本の教育は大きく変わろうとしている。しかし、オホーツクの教育は、旧態依然とした課題を抱えたままである。“『論語』に学ぶべし”と思うのだが、私には時間がなくなってしまった。次代の校長に託す。
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