2022年4月19日火曜日

花だより 昔の方がもっと忙しかった ハナビシソウ

 

≪教師の多忙さと子どもの居場所≫
 世の中の多忙さが、学校への期待と批判の高まりを生み、それこそが教師を多忙にしています。
 教師の多忙さは、子どもの居場所づくりを阻害しています。多忙な教師に気に入られるために、よい子でいなければ学校に居にくくなるのです。一部のお気に入りの子ども以外は、居ても居なくてもよい存在になりかねない。教師はもちろんそのことに気づいていて、すべての子どもたちにしっかりと向き合おうとします。そうするとますます多忙になるのです。
 このような厳しい環境の中で教師は授業をしています。内容がしっかりした授業では、子どもが楽しいと目を輝かせ、できないことができるようになったという実感を持ち、もっとおもしろい世界があるという誘いに食らいつく、そんな授業を教師はしたいと思っています。そのような授業の場こそが子どもにとって最高の「居場所」なのです。
 ところが、休み時間や放課後などの自由な時間での同級生とのかかわり合いの中で、居場所を見い出せるかどうかが、子どもたちの授業への身の入り方に影響する場合があります。授業時間以外の場への目配りは、多忙な教師ほど余裕がありません。子どもたちと用事もないのに自然と雑談をしあえる時間の確保は、多忙な教師には極めて難しい。
 教師や親の忙しさは、子どもをさびしい気持ちにさせ、居場所感を減じさせてしまいます。朝早く出かけ夜遅く帰宅する父親、せわしなく動き自分の話をしっかり聞いてくれない母親、両親の多忙さが子どもの自尊心低下につながるとの指摘があります。
 しかし、父母が仕事や家事から解放されて子育てに十分時間を割くことができた時代が今までにあったでしょうか。今以上に、生活は苦しく、昼も夜も、土曜日も休みなく働いていました。そのかわりに、祖父母や多数のきょうだい、近所の同世代の子どもたちが、幼子の面倒を見、子どもの育ちを見守り、切磋琢磨して成長するコミュニティ(居場所)がかつてはありました。このような場が、現代社会では学校がならざるを得なくなっています。子どもの減少や親戚関係の縮小、近所づきあいの希薄化の中で、学校はコミュニティの育ちを保障するための居場所的役割が増しているのです。

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