~『論語』に学ぶ~
第一章 学而編一 「人生の最上の楽しみ」
「孔子先生がおっしゃった。学問を学び、それを反復すれば自分のものとなり、こんなに喜ばしいことはない。また、学んでいると同学同志の友が遠方より訪ねて来て、ともに語り合い、いっそう楽しくなる。たとえ学問が成就したことを世間の人が認めてくれなかったとしても、それを嘆くことはあるまい。その道を求めていく人を君子というのだから…。」とある。
また、論語には、「六十にして耳順(したが)う。修養を積んで他人の言葉を素直に受け入れられるようになる年が六十である。」という。愚職は既に60歳を過ぎたが、悟りの境地には至っていない。しかし、そうなりたいとは思っている。
第一章 学而編十 「学問は自分を磨くためにある」
「学問は自分自身の教養を深めるためで、人に知られるためにやるわけではない。学問が進み人格が備わったことを、人が知るか知るまいが、そんなことはどうでもいいことだ。それより他人の真価を見抜けない自分の能力の低いことを憂うべきである。」
教師自身の能力の低さを憂うべきではないか。とにかくやることはきちんとやらなければならない。北海道、特にオホーツク管内は、全国最低レベルの学力に低迷している現実を真摯に受け止めるべきである。“わが教職人生に悔い無し”と言いたいところだが、全国最低レベルの学力のまま、教職人生を終わってしまった。
第十七章 陽貨編一八八 「学ぶことで人の差が出る」
「人の本性は誰でも似たようなものであるが、学ぶことによってそれぞれ違ってくる。」
態度の悪い問題児が校長室にやってきた。担任から厳しく説教してくれと頼まれたのだ。罰として、論語を暗記させることにした。問題児が通う児童館に行くと、若い女性指導員から、「校長先生は、校長室で子どもたちに『論語』を教えているのですか?」と聞かれた。その問題児から「“孔子先生が言うには、言葉巧みにおべんちゃらを言ったり、外見の体裁やファッションだけにこだわるような人は、本当の仁(優しさ)とはほど遠い者だ。”『先生も気を付けなさい』」と言われたそうだ。
《論語に学ぶ》
世の中が乱れて住みにくくなると『論語』がもてはやされるという。近い将来、本屋に行くと『論語』の本がずらりと並んでいる光景が見られるかもしれない。
『論語』というと“儒教の聖典”と呼ばれ、政治家や経営者たちが座右の書としていた。そのため、難しいと思われがちだが、複雑な人間関係の中で、人として何を守るべきなのか、その心構えと実践を説いたものである。「人格を鍛える本」といっても過言ではない。誰もが一人前の社会人であろうとするならば、常識として備えて置かなければならない「人の道」なのである。
北見農業試験場のジャガイモ畑
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