子供にがまんすることを教える親が急減している。いい方を替えれば、子供が何をしても叱らない親が急増している。その結果、がまんすることを学ぶ機会が失われてしまった。 なぜそうなったのか。1つは1990年代に「ほめて育てる教育」が欧米から輸入され、急速に普及したことが挙げられる。「日本の子供は自己肯定感が低いので、ほめて育てて自信をつけさせるべきだ」と声高に叫ばれ、それが大流行になった。
「ほめて育てる」教育の落とし穴
子供を叱るにはエネルギーが必要だ。叱らずに済み、そのほうがむしろいいといわれれば、親にとってはありがたい。しかし、「ほめて育てる教育」を日本に輸入する際、大事なことが抜け落ちていた。 欧州では子供をほめながらも子供に厳しい。歴史的に個人主義が根づいているので、親は幼少期から子供を別人格としてあつかい、子供が公の場で他人に迷惑をかけないように、日本よりずっと腐心している。また、成績が悪ければ小学校でも落第する。日本よりずっと社会全体が子供に対して厳しい。社会が子供に厳しいので、親は子供が自己肯定感を失わないように「ほめて育てる」必要がある。
ところが、日本では欧米の前提を無視して、「ほめて育てる」という表面だけを取り入れてしまった。学校現場だけでも厳しさを保っていればよかったのだが、1990年代の後半から、モンスターペアレントという言葉や現象が注目され、親の行きすぎたクレームを避けるために、学校現場でも子供を叱る機会は急速に失われていって、怒ったり叱ったりすることを制限したり、忌避されるようになった。いま小学生の暴力行為が急増するなかで、授業中に騒いだり、席を立ったり、暴れたり、ほかの子供や教師に暴言を吐いたりする子供が増えているが、それでも教師は叱ることができない。むろん親も、学校からそういう報告を受けたとしても子供を叱らない。子供が嫌がることはさせないのだ。
子供が叱られなくなってもう30数年。いまや親世代にも叱られた経験がない人が急増しており、そういう親は子供を叱ることができない。 叱るとは暴力やハラスメントとは似て非なるものだ。子供がまちがったこと、協調性が大切な社会でそれを乱したときや、子供自身の成長を阻んでしまいそうなときに、親や教師が子供を正しく導いてやるのが「叱る」という行為である。親子、または教師と親とのあいだに信頼関係が築けているかぎり、子供のために「叱る」行為は、ハラスメントと同列に判断されるべきものではない。
ところが、いまの親の多くは、自分自身が叱られた経験がない。このため親自身が、だれかに叱られると過度に落ち込んでしまいがちで、ましてや子供を叱ることなどできない。また、2002年度から小中学校で導入された「ゆとり教育」では、子供に無理をさせないことが奨励された。子供を叱らない。子供に無理をさせない。そんな流れを受け、教育現場や家庭では、「子供が嫌がることを無理にやらせず、好きなことを伸ばす」という風潮が生じた。それ自体、文科省が定めた方針ではないが、「無理をさせない=嫌な気持ちにさせない」と誤解されてしまった。
サッカーのように「好きなこと」なら、とことん伸ばしていいと思っている親が多いから、すぐれた選手が輩出するのかもしれない。一方、遊びの延長ではじまるサッカーと違って、勉強を最初から「好きだ」「おもしろい」と感じる子供は少ない。しかし、やっているうちに「おもしろい」と感じるようになる子供も少なくない。「おもしろい」とまでは思わなくても、意欲が生じるケースは多い。意欲が生まれれば、忍耐ができるようにもなる。 ところが、子供がそれに気づく前に、親が先回りして子供の可能性の芽を摘んでしまうのである。叱られたことがない若者が厳しい社会に適応できない、という事例はよく耳にする。今後の社会が心配になる。加えて、せっかくポテンシャルがあったのに、能力を十分に伸ばす機会が得られない子供が急増するとしたら、その子にとって不幸なのはもちろん、日本社会にとって大きな損失である。このままでは、日本が「失われた30年から」から回復できるとはとても思えない。
香原斗志(かはら・とし) 音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
中央教育審議会の委員は、教育関係者以外のこうした人物がなったらいいと思う。
*ウェブバージョンでご覧ください
子供が叱られなくなってもう30数年。いまや親世代にも叱られた経験がない人が急増しており、そういう親は子供を叱ることができない。 叱るとは暴力やハラスメントとは似て非なるものだ。子供がまちがったこと、協調性が大切な社会でそれを乱したときや、子供自身の成長を阻んでしまいそうなときに、親や教師が子供を正しく導いてやるのが「叱る」という行為である。親子、または教師と親とのあいだに信頼関係が築けているかぎり、子供のために「叱る」行為は、ハラスメントと同列に判断されるべきものではない。
ところが、いまの親の多くは、自分自身が叱られた経験がない。このため親自身が、だれかに叱られると過度に落ち込んでしまいがちで、ましてや子供を叱ることなどできない。また、2002年度から小中学校で導入された「ゆとり教育」では、子供に無理をさせないことが奨励された。子供を叱らない。子供に無理をさせない。そんな流れを受け、教育現場や家庭では、「子供が嫌がることを無理にやらせず、好きなことを伸ばす」という風潮が生じた。それ自体、文科省が定めた方針ではないが、「無理をさせない=嫌な気持ちにさせない」と誤解されてしまった。
サッカーのように「好きなこと」なら、とことん伸ばしていいと思っている親が多いから、すぐれた選手が輩出するのかもしれない。一方、遊びの延長ではじまるサッカーと違って、勉強を最初から「好きだ」「おもしろい」と感じる子供は少ない。しかし、やっているうちに「おもしろい」と感じるようになる子供も少なくない。「おもしろい」とまでは思わなくても、意欲が生じるケースは多い。意欲が生まれれば、忍耐ができるようにもなる。 ところが、子供がそれに気づく前に、親が先回りして子供の可能性の芽を摘んでしまうのである。叱られたことがない若者が厳しい社会に適応できない、という事例はよく耳にする。今後の社会が心配になる。加えて、せっかくポテンシャルがあったのに、能力を十分に伸ばす機会が得られない子供が急増するとしたら、その子にとって不幸なのはもちろん、日本社会にとって大きな損失である。このままでは、日本が「失われた30年から」から回復できるとはとても思えない。
香原斗志(かはら・とし) 音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
中央教育審議会の委員は、教育関係者以外のこうした人物がなったらいいと思う。
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