教員は、専門職としての免許制度によって、大学での教育など一定の高度な養成教育を受け、教員として必要な知識・技術を身につけ、さらに難関の採用選考試験を突破してなった職業です。その意味では、もともと職務遂行能力の高い人々が従事する職業です。(少なくとも世間はそう見ています。)また、専門的技術水準の維持や高度な職業倫理の確保が重要な教員の場合は、研修によるプロフェッショナルとしての能力の開発に努めなければなりません。
🤷♂️2008年に「ケイタイ、ネットの闇」と題した記事が教育雑誌に載りました。ところが当時、小学校の教員からは、「ケイタイもネットも家庭教育の問題で学校現場では関心ありませんから」と言われたそうです。
🤔しかし、10年近くの間に世の中は様変わりしました。電車の座席では、乗客の7~8割が一心にスマホを触っています。ベビーカーを押して乗ってきた母親は吊革につかまりながら、面前スマホをしています。クリニックの待合室に病気の子どもを連れてきた母親が、スマホに目をやっている姿を嘆く医師の声も聞きます。参観日、我が子が発表するときスマホのシャッター音が鳴ります。
👀買い物はスマホ決済、音楽を聴くのも、調べ物をするのも、買い物から、デリバリーまで全てスマホです。これだけ時代は変わってきて、おそらく今後スマホユーザーが低年齢化していくことが避けられない状況です。そうした趨勢(すうせい)を危惧するだけでなく、「スマホは持たせない」から「スマホに損なわれない子どもを育てる」ことにシフトが変わり、この魅力的ツールとうまく共存していける逞しい子どもを育てようとする動きに変わってきました。10年前の失敗を挽回しようとしています。
今どきは シャープと言わず ハッシュタグ (サラリーマン川柳より)
#【はっしゅたぐ】ツイッターで、自分と関心ごとが近い人を探すための目印の一つ。
「殺してあげる」という見知らぬ男の元に、遠方から10~20代の女性たちが「自殺したい」と家出して駆けつけ、殺された事件がありました。基本的には、家出は親からの自主避難だが、それゆえにこの事件ではツイッターが利用されました。
ツイッターでは「#」の後に自分の関心がある言葉を付けてつぶやくと、その言葉に関心のあるユーザーがつぶやきの内容を見ることができるのです。「#家出」には、現在も中高生による家出希望の書き込みがあり、そうした未成年を探して自分に近づいてくるように「泊めてあげる」と呼応する書き込みもあるようです。
この「#」からはじまる言葉は、ハッシュタグと呼ばれる、同じハッシュタグには「1日500円で部屋を貸してあげる」と誘う大人もいれば、「家賃無料」と誘っては風俗店で働かせようとする大人もいるのです。
しかし、こうした実態を学校関係者もPTAも知らないままなのです。SNSの隠語的な略語を知らないままだと、校内でいじめが深刻化しても、早期発見は難しいのです。
福沢諭吉の「学問のすゝめ」
人間には生れながらにして貴賎貧富の差別はない。天は生まれながらの人に富貴を与えるのでなく、その人の働きに与えるのである。誰でも自らの働きにより富貴が得られる機会において平等なのである。では、現実社会における賢愚、貧富、身分(地位)の差は何からきているのか。その理由は明白である。「学ぶと学ばざる」とによる差である。学問に励み物事をよく知る者は貴人、富人となり、無学な者は貧人、下人となる。
「天は人の上に人を造らず、人に下に人を造らず」は、あまりにも有名な冒頭の一節ですが、福沢がこの本で言いたかったことは、日本を近代国家に導き、国民を近代市民の育てることにあった。そのためには学問(教育)こそが重要である。明治維新という時代背景から生まれたものです。しかし、声を大にして文明開化論を主張した福沢は、乱暴な意見であると批判され、脅迫状が送られたり、命を狙われたりすることもあったそうです。それでも、新しい日本の思想的指導者としての任務を果たしました。一万円札の肖像が変わっても、これは明治時代だけに通用する思想ではありません。今は、明治以来の改革と言われています。今こそ大事にしたい思想です。
□恩師との再会
「牧野くん、あなたの最後の運動会を見に来たわよ。」と恩師の〇〇先生がわざわざ会いに来てくれました。教え子の子どもが北小に通っていて、私が校長だということを知ったそうです。「あなたが退職なのだから、私も年をとるはずよね。牧野くんは、運動会や学芸会になると張り切ってやっていたわよね…。」先生の話を直立不動で聞きました。
□運動会は特別
学校行事の中で運動会は特別です。学芸会は、自分の子の出番の時だけしか来ない親もいますが、運動会は、ほとんどが開会式から閉会式まで見ます。関係のない他の子の競技にも声援を送ります。普段子どもの教育に関して母親任せのお父さんも、この時ばかりは早起きして、場所取りにやってきます。おじいちゃん、おばあちゃんも「運動会はいつなの?見に行くからね。」と楽しみにしているので、お母さんは、お昼のお弁当作りに精を出します。せっかく朝早く場所取りをしたんだから、競技にも参加したいと思うはずです。3年生の「来て、来て、お願い」では、PTA会長は、いつ呼ばれてもいいように腰を上げて待ち構えていました。
コロナ禍で、2年間運動会ができない学校があります。規模を縮小して、平日に学年ごとに体育の授業で2種目だけ、という学校もありました。それでも孫の運動会だと聞くと駆けつけるおじいちゃん、おばあちゃんがいます。運動会は、特別な学校行事です。来年こそは…。
斜里朝日小学校で退職を迎えるY先生へビデオレターを送るので、出演して欲しいとPTAの役員さんがビデオカメラを持ってやってきました。
わざわざやってきた役員さんは、「Y先生には、本当にお世話になったんです。うちの子は障害をかかえていました。最初の家庭訪問のとき、運転のできない○○先生は、ママチャリでやってきて、『○○さんの病気のこと、私はよく知らなかったから一生懸命勉強してきたんだけど、お母さん、一緒にがんばろうね。』と言われて、この先生だったら信頼して任せられると思ったんです。それで私も先生のお役に立ちたいと思って、役員を引き受けました。そして、退職するので何かしてあげたいと思いビデオレターを考えたんです。」とこの企画のことを説明されました。教師冥利に尽きる話です。私も月並なねぎらいの言葉だけでは申し訳ないと思い、一筆書くことにしました。
「詠嘆の暇も隙間もないほどに 細やかな心遣いに忙しいのが教育者である Y先生、あなたがそうでした。」
~書の心~
子どもの生活環境の崩壊
高橋 英児(山梨大学准教授)
◇子どもの生活環境の崩壊の何を問題とすべきか
子どもたちのさまざまな問題行動(凶悪事件、荒れや暴力行為、いじめ、不登校など)が問題になるたびに、その背景や要因とは何かがこれまで議論されてきました。その際、個々の子どもの心の問題や生活環境、特に家庭の在り方(基本的生活習慣・生活リズムの乱れ、しつけの不足など)の問題が指摘されてきました。しかし、個々の子どもの心の問題や家庭の在り方だけに原因を求めるのであれば、問題の本質を見誤ることになります。
子どもを取り巻く環境が大変な状況にあっても、教師は問題行動に対して毅然と指導すべきだとか、各家庭がしっかりと子どもの面倒を見てしつけをするべきだと要求し、そのような観点からの取組を行っても、問題の本質的な解決に結び付かないことは明らかです。解決のためには複合的な対策が不可欠なのです。
◇問題行動を起こす子どもに学校は何ができるか
生活環境の崩壊が子どもの生きづらさを生み、問題行動へと駆り立てています。これらの克服のためには、崩壊した生活環境を、彼らが安心して生きられるものへと構築し直す取組が必要ですが、そう簡単なものではありません。
崩壊した生活環境の中で生きている彼らの生活現実から出発し、その生活現実と格闘している子どもたちと共闘していくことが何より求められます。
例として、子どもたちの願いや希望・期待を引き出し、それらを自治的な活動(学校・学級を楽しくするための取組など)を通して実現させていくことです。
この取組では、子どもと教師とが生活現実を問い、共有する中で、それぞれの苦悩が聞き取れる関係を生み出すことが肝要です。そして、この関係を支えにしながら、それぞれが自己の生き方に関わる願いや要求を自覚し、生活現実を共同でつくりかえる努力をしなければならないのです。
このような取組は時間がかかり、すぐには問題の解決には結び付かないように見えます。しかし、こうした足下からの地道な取組こそが、子どもたちに「生きる力」を育み、生活環境の崩壊の諸問題に対する有効な対策となるのです。
子どもと大人がともに安心して生きられる場を学級・学校から創造していくことが今重要なのです。(牧野要約)
👀 現場が抱えている問題は深刻ですが、大学の偉い先生が言うとおりにできれば苦労しません。個々の子どもや家庭の問題に対して、「それは家庭の問題だ!」と逃げてはいけないということです。