故中川洋子先生を偲んで
新聞のお悔やみ欄で、中川洋子先生の訃報を知りました。母と同じ昭和6年未年生まれの91歳でした。中川洋子先生は、今はもう廃校になった美幌の田中小学校(30数名のへき地複式校)で40年前一緒に勤務した、大変お世話になった先生です。
先生は、女学校を卒業して、すぐに代用教員として北見市郊外の小さな小学校へ赴任、父親に促されて、泣く泣く赴任したと言っていました。それから小規模へき地校ばかり回られました。1クラス30人の複式も経験したそうです。先生は、へき地複式教育のスペシャリストで、多くのことを学ばさせていただきました。
先生は、女学校を卒業して、すぐに代用教員として北見市郊外の小さな小学校へ赴任、父親に促されて、泣く泣く赴任したと言っていました。それから小規模へき地校ばかり回られました。1クラス30人の複式も経験したそうです。先生は、へき地複式教育のスペシャリストで、多くのことを学ばさせていただきました。
当時は、ワープロの出始めで、まだ高価だったワープロを購入し、「牧野さんに1週間預けるから、マスターして私に教えてちょうだい。」と言われたことがありました。また、車の免許を持っていなくて、家庭訪問は自転車で回るのも辛くなってきたからと講習を受け、50を過ぎてから原付バイクを乗り回していました。また、子どもの活動の様子を撮影するのに、これまた当時としては高価なビデオカメラを購入したり、新製品を次々購入し、その度使い方を教える役をしました。
子どもたちや保護者、地域の人たちからも大変慕われていました。退職後も教え子が高校や大学に進学したり、就職や結婚すると、必ずお祝いの手紙を書いていました。
退職の時の運動会でした。「牧野さんの最後の運動会見に来たわよ。」とわざわざ会いに来てくれました。先生のお姿を見たのは、それが本当の最後になりました。
中川先生の時代は、女学校を卒業して、進学できる女子はごく一部の人でした。優秀だからこそ、お父さんは教師の道をすすめたのだろうと思います。
今は、大学の教育学部を卒業しても教員になりたがらない。採用試験の倍率は2割台です。指導力不足教員も多くいます。
「教育は人なり」とは、よく言ったものです。私は、中川先生のようなたたき上げの先輩教師に巡り会い、多くのことを学ばさせていただいたことを大変幸せに思います。
子どもたちや保護者、地域の人たちからも大変慕われていました。退職後も教え子が高校や大学に進学したり、就職や結婚すると、必ずお祝いの手紙を書いていました。
退職の時の運動会でした。「牧野さんの最後の運動会見に来たわよ。」とわざわざ会いに来てくれました。先生のお姿を見たのは、それが本当の最後になりました。
中川先生の時代は、女学校を卒業して、進学できる女子はごく一部の人でした。優秀だからこそ、お父さんは教師の道をすすめたのだろうと思います。
今は、大学の教育学部を卒業しても教員になりたがらない。採用試験の倍率は2割台です。指導力不足教員も多くいます。
「教育は人なり」とは、よく言ったものです。私は、中川先生のようなたたき上げの先輩教師に巡り会い、多くのことを学ばさせていただいたことを大変幸せに思います。
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