「褒めて育てる」にはさまざまな歪みがある 若者の「生きる力」が衰えてしまったのは、褒められるのが当たり前で、きついことは言わない、文化の違う欧米流の「褒めて育てる」を歪んだ形で導入したからです。
身近な例では、食べ物の好き嫌いが激しい子どもに食べるようにどう促すか。まず「食べなさい」と命じるのは日本も欧米も同じですが、それで食べないと、欧米の親は、語調を強めて「食べなさい!」と強硬に出ます。ところが日本の親は、お願い調に転じて「お願いだから食べて」と言います。さらには「今日食べなくても、明日は食べるよね」と譲歩していきます。米国の学者に言わせると、上の立場の親が、なぜ子どもにお願いをするのか、と不思議がります。
欧米の夫婦は常に「あなた素敵よ、愛している」などと常に言葉でストレートに表現して、人前でもキスをします。日本では考えられないことですが、欧米人はそれを言わないと愛情を感じられないのです。日本人には心理的な一体感が形成されているので言葉なしでも通じるのです。その文化の根底の違いにより「褒めて育てる」はさまざまな歪みを引き起こしているのです。
「褒めて育てる」は1990年代から推奨されて30年経ちました。それと並行して、学校教育でも新学力観が適用され、それまでの競争による知識偏重をやめて「関心・意欲・態度」が重要視されるようになりました。その結果、国際比較で日本の学力が低迷しているのは確かなのですが、褒めて育て、成績では厳しく競わせない。そういう風潮で育った今の親世代が、また子育てをするサイクルに至りました。もはや褒めて育てるという思想は打ち砕きにくい厚い壁になっているのです。
日本の教育文化がはっきり変わってきました。無言のうちに一体感があって、はっきり言われなくても親の愛情は感じる文化から、厳しさ抜きの“エセ欧米流”が取り入れられて褒めまくるようになってしまいました。
今の若者は、褒められるのが当たり前に思うようになり、逆に褒められないとやる気がなくなってしまう。「褒めてくれないと自分たちはめげる世代だ」と言う若者もいます。学生時代はそれで通るかもしれませんが、社会に出てそれが通るわけがありません。
「褒めて育てる」は、自己肯定感を高めるのが目的です。自分の力で壁を乗り越えていくことを経験して初めて自己肯定感は高まるものです。頑張ってもいないのにただ褒められていい気持ちになっていたのでは、本当の自己肯定感は育ちません。がつんとやられても、自己肯定感が強く、自分に自信があれば、そう簡単には潰れません。
本当の自信をつけさせるには、子どもを信じて鍛える体当たりの子育てから始めるべきではないかと思います。特に幼少期には、歩き始めたときや自分一人で靴をはいたときなどは、当然親は褒めます。厳しい壁を作りつつ、褒めるときは褒める。何でも褒めてしからない子育てではダメです。何かの折に褒めることは当然なことです。