2023年10月6日金曜日

花だより 書写教育の現状と課題について どんぐり アシタバ

 



  書写教育の現状と課題について
   はじめに
  作文が書けない。書くことが思いつかない。書き方がわからないという以前に、文字を書くことにストレスがある。字を間違えて何度も消して書き直す。字が思い出せない。わからない。書くこと自体が面倒くさいのである。テストの記述式の回答率が低いのは、字がうまく書けないことも理由にある。そこで、字を書くというのは、歩くことと同じようにいちいち考えて足を運ばず、頭で考えた文章が勝手に手が動いて文字に表すことができないとならない。これがこれまでの教育でした。ところが急速なCPやスマホの普及により、手書きによる文章の作成は皆無に近い。その原因は、プリントアウトされた活字の読みやすさ、レイアウトされた文字の美しさ、フォントの豊富さ、手直しの簡単さ、容易な保存等によるもので、今の子どもたちが大人になる頃には、ますます手書きの機会は少なくなるに違いない。このような現状で書写教育はどうあるべきか考える。
 教える教師の意識
「書写とは何か」の問いに、多くの教師は「書写=お習字」と答える。また「書写の時間は何をする時間なのか」と問われたら、「文字をきれいに書く時間」、「精神を落ち着かせる時間」、「集中力を高める時間」と回答が多い。さらに準備と片付けに時間がかかり面倒で、多くの学校では専科となっていて、極めつけは「担任の休憩時間」くらいにしか思っていない。
 教師自身も書道の経験がなく、書写の時間は、お手本を通りに〝清書〟という形式だけで終始させてしまう授業がまかり通っている。そもそも年間35時間の書写の時間だけで、字が上手にきれいに書けるようになるはずがありません。
 書写のねらい
 こうした現状にあっても、今回改訂された学習指導要領では「書写」について何ら改訂されていない。全教科共通のねらいである「知識・技能はもちろんのこと、学ぶ意欲や自分で課題を見つけ、自ら学び、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力等まで含めたもの」を現状の書写の時間(教員の意識)で育成することは困難である。現実に書写の時間は減少傾向にある。このまま書写教育への意識を変えなければ、書写の時間は教育課程の枠組みから姿を消す可能性がある。
 学習指導要領では、書写とは、伝達記号としての文字言語の習得であると定義している。伝達機能を持たせるために、文字の形や組み立て方、配列、大きさなどを習得させ、活用させることが書写には求められている。つまり、いかに読みやすく書くかといった情報伝達の効率化を最終的に目指すものとなっている。
 現状と課題
 しかし、今の書写では、従来の競書を戒め、必ずしもお手本通りに書かなくてもよく。また、どれをお手本にするかもわからない。特に毛筆ほど非効率なものはない。全教科を含め書く時間は減少している。その結果、最近の子どもたちの書く字を見ると愕然とする。筆順はどうでもよく、それらしい文字になっていれば「良し」としている。
 文字の乱れは、子どもたちだけではない。教える多くの教師の板書もお粗末なのである。これは、ワープロの普及だけでなく、情報伝達の効率化だけを求め、書写の基本を疎かにした書写教育の結果である。学力低下の原因が画一的な指導法にあるだけではない。最も基本的な正しく文字を書くという書写教育の低下が少なくとも影響しているように思われる。また、日本人の美意識や勤勉さ、精神性にも文字文化は関係する。「文字の乱れは、心の乱れ」という言葉は既に死語になってきているのは残念である。
 今後の展開
 特に3年生以上の毛筆は、硬筆の基礎を養うための一道具に過ぎず、なぜ筆を持つのかについての文化的背景などは指導されない。しかし、筆を使って文字を書くことは、日本の文化である。辛うじて書道は、生涯学習の一つとして広く人々に受け入れられている。硬筆の基礎を養う書写から、芸術としての書写に見直すことが必要であると考える。
 日本の文字は単なる伝達記号ではなく、書を芸術まで高めた日本の文化について、教師自身が認識を深めない限り、書写教育の充実はない。
 いっそのこと諦めて書写を廃止し、伝達機能の効率化だけを求め、自ら書く行為から豊富なフォントから選択し、見やすくレイアウトする能力を身につける新しい書写の時間を考えるなら別だが…。

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