≪子どもの居場所≫
教師に気に入られるために、よい子でいなければ学校に居にくくなる。一部のお気に入りの子ども以外は、居ても居なくてもよい存在になりかねない。教師はもちろんそのことに気づいていて、すべての子どもたちにしっかりと向きあおうとする。そうするとますます教師は多忙となる。教師のメンタルヘルスの悪化は、このようないたちごっこのような循環があるように感じる。
そのような厳しい環境ではあるが、教師は授業を持っている。子どもが楽しいと目を輝かせ、できないことができるようになったという実感を持ち、楽しい、分かる授業を教師はしたいと思う。そのような授業の場こそが子どもたちの最高の「居場所」だろう。
このようなことは、別に私が指摘しなくても、ほとんどの教師が、そして子どもたちが知っていることである。しかし、授業が居場所として機能しにくくなる場合がある。それは休み時間や放課後などの自由な時間での同級生とのかかわり合いの中で、居場所を見いだせるかどうかが、子どもたちの授業へモチベーションに影響する場合がある。授業時間以外の場への目配りは、多忙な教師ほど余裕がなく手薄になる。子どもたちと雑談をしあえる時間の確保は、多忙な教師には極めて難しい。ましてや、授業以外の見えないところまで、あれこれ考える心と時間の余裕などない。
学校だけではない、家庭においても同じである。大人の忙しさは、子どもをさびしい気持ちにさせ、居場所感を減じさせることになる。朝早く出かけ夜遅く帰宅する父親、せわしなく動き自分の話をしっかり聞いてくれない母親、両親の多忙さが子どもの自尊心低下につながるという指摘がある。
しかし、父母が仕事や家事から解放されて子育てに十分時間を割くことができた時代が今までにあっただろうか。そのかわりに、祖父母や親戚、多数のきょうだい、近所の同世代の子どもたちが、幼子の面倒を見、子どもの育ちを見守り、切磋琢磨して成長するコミュニティ(居場所)がかつてはあった。このような場が、現代社会では学校とならざると得なくなっている。子どもの減少や親戚関係の縮小、近所づきあいの希薄化の中で、学校はコミュニティの育ちを保障するための居場所にならざると得ないのだが、学校や教師にそんな余裕があるだろうか?
網走湖
0 件のコメント:
コメントを投稿