幼児施設に不信感を持たれている今だからこそ、倉橋惣三に学ぶべし!
大正から昭和にかけての日本の保育の基礎を築いた教育者です。保育・幼児教育において、重要人物である倉橋惣三。幼児教育関係者でこの人の名前を知らない人はおそらくいない程の人物です。
倉橋惣三の著書で有名なのが『育ての心』です。その中には保育に関するたくさんの名言があります。
「自ら育つものを育たせようとする心、それが育ての心である。」
自ら育つものを育たせようとする心、それが育ての心である。世にこんな楽しい心があろうか。それは明るい世界である。温かい世界である。育つものと育てるものとが、互いの結びつきに於て相楽しんでいる心である。
育ての心。そこには何の強要もない。無理もない。育つもののおおきな力を信頼し、敬重して、その発達の途に遵[したが]うて発達を遂げしめようとする。役目でもなく、義務でもなく、誰の心にも動く真情である。~中略~
それにしても、育ての心は相手を育てるばかりではない。それによって自分も育てられてゆくのである。我が子を育てて自ら育つ親、子等の心を育てて自らの心も育つ教育者。育ての心は子どものためばかりではない。親と教育者とを育てる心である。
大正から昭和の昔の教育理念ではない。今だからこそ、この名言を噛みしめるべき!
園内を巡視していると「あっ!園長先生だ。」と園児が飛びついてくる。抱きかかえ、高い髙いをしてやる。後で、「育ての心」を読むとこんなことが書かれてあった。
「飛びついて来た子ども」
子どもが飛びついて来た。あっという間にもう何処かへ駆けて行ってしまった。その子の親しみを気のついた時には、もう向こうを向いている。私は果たしてあの飛びついて来た瞬間の心を、その時ぴったりと受けてやったであろうか。それに相当する親しみで応じてやったろうか。
後でやっと気がついてのこのこ出かけて行って、先刻はといったところで、活きた時機は逸し去っている。埋めあわせのつもりで、親しさを押しつけてゆくと、しつこいといった顔をして逃げていったりする。其の時にあらずんば、うるさいに違いない。時は、さっきのあの時である。いつ飛びついて来るか分からない子どもたちである。
「飛びついて来た子ども」
子どもが飛びついて来た。あっという間にもう何処かへ駆けて行ってしまった。その子の親しみを気のついた時には、もう向こうを向いている。私は果たしてあの飛びついて来た瞬間の心を、その時ぴったりと受けてやったであろうか。それに相当する親しみで応じてやったろうか。
後でやっと気がついてのこのこ出かけて行って、先刻はといったところで、活きた時機は逸し去っている。埋めあわせのつもりで、親しさを押しつけてゆくと、しつこいといった顔をして逃げていったりする。其の時にあらずんば、うるさいに違いない。時は、さっきのあの時である。いつ飛びついて来るか分からない子どもたちである。
全くそんなことまで考えも及ばなかった。幼児教育は奥深い?
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